魂のこもった日誌を、たまに書きます。

さよならゴールドフィッシュ

2014.6.20


summer-tree

金魚が、死んだ。

去年の夏に飼い始めた4匹のうち、いちばん体の大きな奴だった。

そのサイズは飛び抜けていて、他の3匹と並ぶと身長も体積も2倍近くあった。

 

その日は、いつもより遅く目が覚めた。先に起きた2歳の息子が、私を起こす。

「ねぇ、音がするよ」「音…?」

確かにどこからか、ブォオオーという轟音が聞こえる。

 

最初は、炊飯器かと思った。

2年前に最新型だった我が家の炊飯器には真空機能があり、炊いたごはんを

真空で保存してくれる。素晴らしい機能だが、空気を抜く際に結構な音がする。

今日は何でこんなに大きいのかな、と考えつつ、

「何だろうね?行ってみよっか?」と息子を誘う私。

「うん!」と川口浩ばりの探究心に満ちた目でうなづく息子。

 

二人で音のするほうへ向かう。

行き着いたのはリビング。目に飛び込んできたのは、ブォオオオーと断末魔の

ごとき爆音を放つ水槽のろ過装置と、水面近くで仰向けに浮かぶ巨体の金魚。

デジャヴ…

“あぁ、また育てられなかった”という小学生の頃の苦い記憶と、

“こんな明白な死を、こんな幼児に見せつけていいのか?”という母としての葛藤。

 

立ちすくんでいる暇はない。息子は水槽を凝視している。

「あぁ、金魚、死んじゃったねぇ」とつとめて冷静に説明しながら、

ろ過装置を直し、死んだ金魚を出すために、割り箸を持ってくる。

けれど、思っているより動揺して手元が狂うのか、

金魚が死後硬直しているからか、箸をするりと抜け、何度も失敗。

 

“これは…まだ生きているのか?”と淡い希望も、脳裏をかすめる。

“もしや死んだフリなのでは?!”と疑惑も浮かぶ。でも即座に

“なんで演技するの!そもそもできないよ!”と否定。

そんな自問自答の間も、するり、するりと掴めない。

あまり手間取ると、息子に不審に思われる。

焦るものの、箸を通して伝わる硬い死の生々しさにおののき、

ますます掴めない。だんだん向き合うのが辛くなってくる。

仕方がないので、以前から捨てようと思っていた茶こしに持ち替えて

すくい上げ、なんとか金魚を収容。

その後、残された金魚のために水も換え、水槽は平穏に戻った。

ボス的な存在だった一匹は、二度と帰ってこないが。

 

きっと水槽にたまった汚れが、死を早めたのに違いない。

冬の間、水があまり汚れないのをいいことに、私は掃除を怠った。

暑くなり始めても、まだイケルか?まだ大丈夫か?と、自分を甘やかしていた。

死の一週間ほど前から、そろそろ掃除せねば…と思っていたのに。

日に日に濁ってゆく水を、横目で気にしてはいたのに。

私による環境破壊が、大きな体を直撃したのだ。

 

後悔、先に立たず。覆水、盆に返らず。

せめて残った3匹のために、これからは定期的に掃除をしよう。

あの金魚の死から、私は学ばなければ。

 

ちなみに一連の作業を、息子は厳粛な面持ちで見守っていた。

その後、「○○、死んじゃったの?」という言葉を使うようになった。

これはいい影響なのか、どうなのか。

今度、検索してみよう。