魂のこもった日誌を、たまに書きます。

ひらかれた正月

2015.1.5


椿

あけましておめでとうございます。

みりん広告は本日より営業しております。

本年もどうぞご贔屓に。

 

今年のお正月は、なんとなく“正月感”について考えていました。

かつての正月は日常から切り離された特別な時間。

それがいつ頃からか日常の延長、普通になってしまった気がして。

 

年末には餅つきをして紅白鑑賞、年越しそば。

新年はお節やお雑煮も頂いて、初詣もしたんですけどね。

今年も一月一日は「あ、今日は元旦か…」というぐらいの温度感。

三日は「まだ三が日だったっけ…」という驚き。

 

これは、どうしてなんだろう?

ぼんやりと考えた結果、便利になったからだな、と単純に思い至りました。

 

私が子供だった頃、お正月は日本中の空気が静まる気配がありました。

商店街はすべて閉まり、銀行もストップ。

三が日は友達に連絡するのもはばかられ、年賀状のみ。

ほぼ外界と遮断されるから、家で両親や兄達とこたつでトランプしたり、

出かけても神社に行くぐらいで、おとなしくしていたように思います。

 

それが今や銀行のATMは年中無休。

商店街もチェーン店は開き、スーパーは大晦日元旦も営業。

どこへでも出かけられるし、テレビも多チャンネルで目移り。

携帯やSNSでいつでも気兼ねなく友達とつながれる。

とても便利にはなったのですが、その分、特別感がなくなり、

閉ざされたあの静けさと厳かさも失われてしまったのかなと。

 

便利さが、静粛を奪う。そんなこともあるんですね。

だからと言って、もう昔には戻れないのですが、

今、あの非日常感を味わうためには、着物でも着るべきなのか?

でも、前に着物を着たとき夫に「料理研究家みたい…」とか言われたよな。

などと酔っぱらいながらグルグル考えた、平成二十七年の年始でした。